日々、ガラスと。

こんにちは。

インターン生のまりのです。

4月からスタートしたハリーズでのインターンも、もう気づけば9ヶ月経ちました。早いです。

インターンでは、日々の業務に携わりながらパート・ド・ヴェールについて学んいるのですが、

時々、由水先生からパート・ド・ヴェールにまつわる「課題」を出されることがあります。

ある時、「小柴 外一」(コシバ ソトイチ)という人物について調べまとめるというレポート課題が出されました。

皆様は小柴外一さんをご存知でしょうか?

お恥ずかしながら、私はこの課題が出されるまで知りませんでした。

日本で初めてパート・ド・ヴェールの制作に成功された方です。

本日は私が課題でまとめたレポートをこちらのブログに掲載させていただいております。

主にご子息が小柴さんについて書かれた本をまとめたものになりますが、

小柴さんやパート・ド・ヴェールの歴史や未来について、パート・ド・ヴェールに関わる方々が想いを馳せるきっかけとなれば幸いです。

 

それでは皆様良いお年をお迎え下さい。

また来年も作品制作頑張ります!

引き続きどうぞ宜しくお願い致します。

 

ーーー

「小柴 外一」

ーパート・ド・ヴェールの復元・後世への影響ー

 

小柴外ーが工芸ガラスと出会うまで

1901年(明治34年)10月30日富山県中新川郡上市町出身。生家は左官業を営み、小柴も子供の頃から器用な子であったという。

地元の高等小学校を卒業した小柴は、16歳になった時、叔父を頼って東京へ上京。叔父の紹介で出版社「同文館」に就職。真面目でこつこつやる性格から夜間部に通うことも許され、専修専門学校(現専修大学)に入学。

満20歳の時、兵役のため、豊橋連隊騎兵隊に入隊。

除隊後復職するも会社の不況のため、人員削減に合い離職。

その後1931年(昭和6年)に同文館時代の先輩であった田中藤吉の誘いで、「合資会社岩城硝子製造所」(現AGCテクノグラス株式会社)に入社し、経理部へ配属された。時の社長である「岩城倉之介」と高校時代の同級生であった田中の紹介ということでスムーズに入社することができた。

これが小柴にとってその後生涯を通じて取り組むこととなる、工芸ガラスと出会う契機となる。

パート・ド・ヴェール開発

経理として入社した小柴であったが、本来の経理の仕事よりもガラス製造現場に興味を持ち、現場に入り浸っていた。小柴には専門の知識や経験はなかったが、そのような小柴の様子を見ていた倉之助と工場長の佐藤は、小柴に適正を見出し、やがて1932年(昭和7年)に経理部から、ガラス製品の研究開発をしていた「清水有三」の研究室への移籍が決まった。清水と小柴の共同研究の始まりである。

清水は倉之助がヘッドハンティングした優秀な化学者で、岩城の頭脳的存在であった。小柴にはガラスの知識はなかったが、二人は意気投合し、終生兄弟以上の付き合いであったと言う。

そして同年、倉之助よりパート・ド・ヴェールの制作が命じられた。フランスに留学していた、洋画家「岡田三郎助」と陶家「沼田一雅」によってもたらされた情報と服部時計店(現 和光)から取り寄せた、アルジー・ルソーの破損したランプシェードの破片だけが手がかりであった。

ガラスの破片から、清水は原料の成分分析、小柴は製法を類推する作業を始めるなど、手探りの研究であったが、研究開始から2年目の1934年(昭和9年)には試作が成功した。

岩城硝子工芸部

パート・ド・ヴェールの商品化にあたり、小柴は自分一人での原型制作には限界があると感じ、昭和9年に、沼田の紹介で陶芸家の「小川雄平」が開発に加わり、「岩城硝子工芸部」が新設され、小川が初代工芸部長を務めた。小川は海軍勤めであったが、体調を崩したことと、37歳の時に沼田の個展を鑑賞したことをきっかけに沼田に師事し、陶芸家へと転身した。

工芸部において小川は、造形の腕前を発揮し、多くの優れた作品を生み出した。工芸について専門的な知識のなかった小柴にとって刺激となったことであろう。

1936年(昭和11年)には日本橋三越本店にて、岩城硝子工芸部の第一回「パート・ド・ヴェール」展覧会が開催され、小柴も多数の作品を出展した。

その後工芸部では、パート・ド・ヴェールだけではなく、ステンドグラスやグラヴィールなど他のガラス工芸の制作・研究なども行われていったが、第二次世界大戦に突入し、戦災で主力の工場を失った岩城は衰退していった。戦後の復興の中でも、板ガラスやガラス瓶などの実用的なガラスの需要は増加したが、工芸品としてのガラスは売れる時代ではなかった。

そして1952年(昭和27年)に、岩城は旭硝子の傘下に編入され、岩城倉之助は退任し、それに伴い工芸部も廃部となった。

岩城退社後

小柴は、1956年(昭和31年)に定年(55歳)のため、岩城を退職。馬込の自宅にパート・ド・ヴェール用の窯を作り、1973年(昭和48年)に亡くなるまで作品を作り続けた。また、退職後は、食器や照明器具のデザインの仕事や、ガラスモザイクやステンドグラスなどの制作依頼を受けた。それらのガラスの制作は、三人の息子たちと取り組むこともあったが、パート・ド・ヴェールについては手伝わせたり、教えたりすることはなかった。

小柴外ーと現代のパート・ド・ヴェール(考察)

日本で初めてパート・ド・ヴェールを復元することに成功した小柴や岩城硝子工芸部であったが、残念なことに今日、日本のパート・ド・ヴェールを調べても、その名前が真っ先には上がってくることはない。中には、他の研究者や作家によって日本で初めてパート・ド・ヴェールが復元されたかのように書かれているものも見られる。このように、現代において小柴の名前が知られていない理由として、小柴の系譜に当たる人物や書物が一般的に残されていないことが考えられる。

パート・ド・ヴェールという技法自体、歴史的に見ても閉鎖的なもので、当時のヨーロッパにおいて父子相伝とされており、外部にその知識や技術が知られることがなかったため、広まることは難しかった。また、小柴に関しては、自分の子供達にすらパート・ド・ヴェールを教えることはなく、小柴が亡くなった後、日本において復元されたパート・ド・ヴェールの技法も一度失われた。

小柴が書き残した、『パート・ド・ヴェール私見と覚書』の中で、「..採算を度外視してのバックアップがない限り、いずれは消え去る運命にあるかもしれない。しかし、作品の幾つかが残っていれば、何時の日か研究者や修道者が、先人の跡を辿り究めれば復活できるものと信じる。」と記していることから、研究の成果を明確に残さなかった理由として、安定した製品としての確立ができなかったことが考えられるが、パート・ド・ヴェールの魅力を確信し、その可能性を将来の人々へ託しているようにも思える。

このように歴史の中で、パート・ド・ヴェールは何度も失われた技法であるが、その度に復活もしてきた。それだけの他の技法にはない心を惹きつける力があると感じる。

パート・ド・ヴェールが失われるたび、多くの人々の苦節を経て復活してきたことであろう事は想像に難くない。

この先は、二度とパート・ド・ヴェールが「幻の技法」となることなく、先人の研究や功績を生かし、さらに発展した技術になるよう携わっていきたい。

<参考文献>

・小柴士郎(2003)『小柴外一色彩と炎の世界:旧岩城硝子工芸部の作品群』

・黒崎知彦、三橋寿恵子、友部直、中村裕、井上暁子(1983)「パート・ド・ヴェールー技法と鑑賞一」日本ガラス工芸学会学会誌『GLASS』15号,pp:16-21

・樋田豊次郎(1986)「パート・ド・ヴェール技法の受容一岩城硝子工芸部とフランソワ・デコルシュモンー」日本ガラス工芸学会学会誌『GLASS』21号.pp.27-28

AGCテクノガラス株式会社「ATG MUSEUM https://www.atgc.co.jp/museum/

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA