日々、ガラスと。

こんにちは。

インターン生のチェリーこと津倉知里です。

ハリーズのインターンを始めて1年が経ち、本日でインターン最終日となりました。
作品作りに欠かせない材料作りから教わり始め、毎日勉強になることばかりであっという間の一年でした。
インターン生はレポート課題があるのですが、今回私が出された課題は『パート・ド・ヴェールとアール・ヌーヴォー』でした。

パート・ド・ヴェールが発案され、発展し、消滅したアール・ヌーヴォー時代。なぜ技法は秘伝とされ公開されなかったのか。簡単にですがレポートにまとめました。ぜひご覧ください。

「パート・ド・ヴェールとアール・ヌーヴォー」

パート・ド・ヴェールはなぜ秘伝とされ、公開されなかったのか。

はじめに
パート・ド・ヴェール(Pate de verre)とは、フランス語で「ガラスの練り粉」という意味である。
砕いた粉状のガラスを特殊な糊で練り、耐火性のある型の中に張り付けて焼成する。鋳型どおりのガラス作品を作る技法を説明する言葉として、19世紀の末に、フランスで創り出された言葉である。日本語に翻訳すると「練りガラス」。英語では「Paste of Glass Technique」 ほかにもキルンキャスト(KilnCast)やキャストガラス(CastGlass)と呼ばれている。
 ガラス工芸の歴史は長く、技術や技法が急速に高まった時期がいくつかある。
なかでも、ガラスの様々な技法が芸術的表現のために研究、あるいは新たに開発されていったのが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアール・ヌーヴォーの時代であった。

 フランスを中心に起こった「新しい芸術」アール・ヌーヴォー。花や昆虫など、自然の造形をモチーフにし、当時の最新の素材や技術を用いて表現したその革新的な芸術性は多くの人々を魅了した。

パート・ド・ヴェールの誕生と消滅
 ガラスを粉砕したものを使用し、粘土造形のように作った形をガラスで制作しようとした技法は、紀元前16世紀頃にメソポタミアで考え出された。
古代メソポタミアのガラス工人たちは、様々なガラス器や装飾品を試行錯誤しながら制作し、鋳型成形法を開発した。
 過去に消滅した古代ガラスの技法を19世紀末にフランスの彫刻家アンリ・クロ(1840-1907)はガラスの彫刻を作ろうと試行錯誤する中で再発見した。

 ガラスを粉状にし糊で練ったものを焼成する。古代メソポタミアのガラス工人たちと同じ失敗を繰り返しながら、パート・ド・ヴェールという技法を考案した。
しかし、アンリ・クロはその技法を秘伝として公開しなかったため、一般には普及しなかった。
それでも、当時のガラス作家や陶芸家たちにとって全く新しく創造的な技法であったため、幾つかの作家達の関心を持たせ、多くの実験が行われたことにより、古代ガラスの中に消え失せた技法が高度に発展していったのである。
そしてこれらフランスのパート・ド・ヴェール作家も自らの技法を秘伝として公開しなかったため、作家の死とともに技法とも消滅してしまった。

 アール・ヌーヴォー時代のパート・ド・ヴェールも制作方法の原理を理解し、適した材料があれば容易に制作することが出来たと考えられる。
しかし、秘伝として公開されることがなかった技法の開発は容易いことではない。パート・ド・ヴェールの発展の裏側には一から制作を始めた作家達の膨大な実験を繰り返した日々があったに違いない。
そのことからアール・ヌーヴォー時代の作家達がパート・ド・ヴェールの技法を秘伝とし、公開しなかった理由は、自分達の実験データを読むだけで原理を理解することができ、誰でも容易に使いこなせる技法であると考えたからではないだろうか。もし技法を秘伝とせず公開していればパート・ド・ヴェールは衰退することなく、多くの人々によって制作され、芸術作品や工芸作品には欠かせない技法となっていたのではないだろうか。

アール・ヌーヴォー時代のパートドヴェール作家
 アールヌーヴォー時代、パート・ド・ヴェールを作るために作家達は多くの実験・研究を行い、作品を作り上げた。その実験データが秘伝として公開されることはなかった。

アンリ・クロ(1840-1907)

パート・ド・ヴェールの考案者。ガラス色粉、型材料、糊、焼成方法を案出。
色ガラスを熔かして型で成形する方法では、色が流れて所定の場所に色がとどまらないことから、無色のクリスタルガラスを粉砕したものに、発色剤の酸化金属を加えて色を出した。
型も加熱中に割れ、ガラスが十分に熔けないなど多くの失敗と試行錯誤をくり返えす。型は特殊な耐熱の石膏を使ったとされる。

アルベール・ダムーズ(1848-1926)

一つの型で、パート・ド・ヴェールの中空作品を作る方法を案出。無線七宝に似た紋様を表現出来る技法を開発。
陶彫家の息子として生まれた彼は多くの展示会で金銀賞を獲得する本格的な陶芸家であった。色づけした粘土のレリーフを重ね一つの彫像やレリーフを作る色彩陶彫とガラスのペーストの上に、異った色のペーストを付着させて色模様のあるガラス作品を作る技法には共通性があり、それを現実化するために細やかな知識が必要であったが、技法について記録されたものはなく、技術を公開している人もいないため、糊、型の材料、焼成温度を1つづつ実験した。

フランソワ・デコルシュモン(1880-1971)

硅砂と鉛と金属酸化物等を使ってガラスの素材を作るところからはじめる。さらにそれを粉粋し、粘性と可塑性が大きいマルメロの実(別名:セイヨウカリン)の液で練ったものを型の中に詰めて焼成する方法を案出。
七宝釉や金属酸化物を型に薄く塗布して発色させる方法や、蠟型鋳造法、表面の研磨法などを開発。
ガラス塊を加熱熔解して自然に鋳造する技法「雌雄型鋳造法」を考案し、数少ない透明感の高いパート・ド・ヴェールを確立。

 3人の作家の実験から「耐火性の強い型」、「色をとどめるための粘性の大きい糊」、「焼成温度」、のこの3点がパート・ド・ヴェールを作るのに必要な知識だったと言える。
すなわち、この3つの知識が揃えば「誰でもパート・ド・ヴェールの制作が可能である。」ということが分かる。また、吹きガラスのような熟練の技術が必要な制作工程がない。
そのことから作家達の実験・研究データを手に入れ、原理を理解することが出来れば誰でも容易に使いこなせる技法であると気づいたパート・ド・ヴェール作家達は、誰でも制作をすることが出来ないよう、技法を秘伝としたのではないだろうか。

現代のパート・ド・ヴェール
 日本でもパート・ド・ヴェールを伝播させようとした動きがあった。昭和初期に洋画家の岡田三郎助はフランスのパート・ド・ヴェール作品(ワルター、ルソー、デコルシュモンの作品)を日本に持ち帰り、当時の岩城ガラス株式会社(現在の岩城硝子)がその研究に取り組んだ。化学者の清水有三、陶芸家の小川雄平、ガラス技術者の小柴外一(1901-1973)の3人の共同研究によって、1935年頃には岡田三郎助が持ち帰った作品のほとんどの技法が完成した。

 1975年に美術史家・ガラス工芸専門家である由水常雄が、実験考古学の分野からメソポタミア時代に誕生した古代ガラスの鋳型成形法技法を復元し、1977年から公開教育を始めた。
フランスのアール・ヌーヴォーの作家達が考案した技法を解明し、更に新しい考案を加え、失敗のない方法を探索して新たなパートドヴェール技法を作り上げ、その後多くの美術大学でもガラスの教育がおこなわれるようになり、現在に至る。
制作方法、使用する素材、焼成プログラム、加工方法まで一般公開されるようになり、パート・ド・ヴェールは特別な知識や熟練技術を必要とせず、危険を伴う作業もないことから子どもから高齢の人まで誰でも容易に作ることができる、分かりやすくて易しい技法として広がった。彫刻、食器、建築、アクセサリーなど制作者の思いのままの造形が可能になり、パートドヴェールを制作する人々が増えた。

考察
 アール・ヌーヴォー時代にも現代のような技法の公開、教育が行われていれば多くの人々がパート・ド・ヴェールの作品を制作し、技法の衰退、消滅もなく、幻の技法と呼ばれることはなかったのではないだろうか。
もしそうであれば、現代のパート・ド・ヴェールは今よりも莫大なデータが集まっていただろう。より失敗のない制作方法を発明し、更なる発展と成長を遂げ、新たな技法が誕生していた未来があったかもしれない。

 消滅を繰り返してもなお、復活してきたパート・ド・ヴェールには時代を越えるほどの魅力があり、人々は復活・発展の度に未知の可能性を感じ、心踊らされたのではないだろうか。
技法が一般公開され、教育も行われている現在、今後古代ガラスや、アール・ヌーヴォー時代のようにパート・ド・ヴェールが衰退、消滅する可能性は極めて低いだろう。
しかし、パート・ド・ヴェールに携わる1人の作家として今、目の前にある情報を駆使して制作することに満足せず、より失敗のない制作方法の探究や、表現方法の拡大を目指し制作視野を広げていきたい。

「パートドヴェールで制作不可能な造形はない」と明言出来る未来を目指すため、アール・ヌーヴォー時代のガラス作家の研究意欲を見習い、今後も勉強をし続け独自のパートドヴェールを展開させ次の時代へ繋げていきたい。


参考文献

由水常雄 『アール・ヌーヴォーのガラス』(1979)、株式会社平凡社。
由水常雄 『アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス』(1988)、株式会社平凡社。
由水常雄 『パート・ド・ヴェールの技法』(1992)、株式会社 東京ヴェリエ。
由水常雄、谷一尚 『世界ガラス美術全集 第1巻 古代・中世』(1992)、株式会社求龍堂。

ガラス工芸研究会 『GLASS ガラス工芸研究会雑誌15』、『GLASS ガラス工芸研究会雑誌21』、『GLASS ガラス工芸研究会雑誌34』、『GLASS ガラス工芸研究会雑誌35』(1983)、株式会社技報堂。

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